4月15日に、エリック・クラプトンの武道館ライブに行ってきました。1974年の初来日から45年、日本武道館における公演は今回のツアーで通算96回を数え、その記録は2位のブライアン・アダムス(24回)と3位のスティング(22回)を大きく引き離して、海外アーティスト中ダントツ1位、と開催決定時のニュースにありました。調べてみたら、他の会場も含めると日本でのコンサートは通算216回。すごい数字です。
ワールドツアーからは引退しても変わらず日本には来てくれることも、長年のファンとしてはうれしいところ。2014年くらいから、今回こそ最後だ最後だと言われていますが、どうなのでしょうね。74歳のクラプトンはとても若くて健康そうで、声もプレイもさらに円熟味を増してこそいたけれど、衰えた感じは全然しませんでした。日頃、鍛練しているんだろうな。もちろん、ライブの時間は以前と比べると短くなっているけれど、それでいいのです。また再来年あたり、来てくれるといいのですが。
コンサートに行くと必ずプログラムを買うのですが、1963年から56年間という長いキャリアのアーティストともなると、巻末に載っているディスコグラフィーもかなりの見応えです。70年代にも80年代にも90年代にも活動のブランクはあったのに、ほぼ毎年アルバムが出ています。今は音楽も配信の時代ですが(そちらももちろん、たっぷり利用していますが)、やっぱりお気に入りのアーティストのアルバムは買って手元に置きたいと思ってしまう世代。知らない間に、4つある音楽CD用の引き出しのうち1つは全部エリック・クラプトンになっていました。筋金入りのオールドファンだったらアナログレコードなんかも持っているのでしょうが、私はCDで十分。長い間聴いていないアルバムもありますが、いつどれが聴きたくなるかわからないので、揃っていると安心なのです。
最近のクラプトンのインタビューを読むと、「メンタル・ジュークボックス」という言葉をよく使っています。ごく若い頃から聴いてきたお気に入りの音楽が、旋律の記憶の断片として自分の中にたまっていき、その人生の歴史とともに醸成されたもので、人は誰しも自分の「メンタル・ジュークボックス」を抱えて生きている。クラプトンはそこから自分のフィルターを通した旋律を取り出し、音楽を紡ぎ出すんだと、大意はそういうことだったと思います。「美しい曲に敬意を払って、それを自分なりに解釈して演奏したい」とも言っていましたが、今でもライブでよく演奏される代表曲に、古いブルースの数々はもちろん、ボブ・マーリーやJ. J. ケイルのカバー曲が並ぶのも、それでよく理解できます。
最近はコンサートに一人で行くことが多いのですが、今回の武道館ライブで隣の隣の隣くらいに座っていた、やはり一人で来ていたらしい同年代の男性が、ずっと涙を拭いながら聴き入っていました。昨年秋、映画『ボヘミアン・ラプソディ』とほぼ同時期に公開されていたエリック・クラプトンのドキュメンタリーを観た映画館でも、同じような光景に出会いました。泣いているのはなんとなく男性が多いような気がしたのは私だけでしょうか?
作曲や演奏をする人に限らず、みんな自分の中にその人だけのメンタル・ジュークボックスがあり、思い出の音楽に一人で耳を傾けることはあると思います。クラプトンのコンサートに行っていつも思うのは、その歌や演奏の素晴らしさとはまた別の感慨として、時間の積み重ねってすごいなぁ、ということです。時間をかけて醸成されてきたメンタル・ジュークボックスから取り出され、解釈を加えて仕上げられた曲は、また誰かの感動とともに、別のジュークボックスにしまいこまれます。そしてふと思い出して口ずさんだり、偶然耳にしたり、ときには誰かと一緒に楽しく歌ったりするなかで、元気を取り戻したり、勇気をもらったり、逆に悲しみに浸らせてもらったりしながら、また記憶の断片として人生の時間をともに過ごしていきます。
私のメンタル・ジュークボックスの最前列に存在し続けているミスター・クラプトンは、好きなことを仕事として突き詰め、半世紀を超えるキャリアがあり、70代半ばになっても超一流の現役で、進化しながら活躍し続ける、仰ぎ見るような人生の大先輩ともいえます。私も年を重ねてきたので、今回のライブでたぶん25回目くらいなのですが、いつもライブに行くときは、ちょうど何かの節目に当たっている気もします。だから、次のライブのときにはこんなふうになっているといいな、と想像しながら、日々がんばっていこうと思うのです。
以上、平成最後の武道館ライブを機会に、大好きなクラプトンについて「暑苦しくならないように書く」ことが実は今回のテーマだったのですが、うーん、やっぱりちょっと暑苦しくなってしまいました!
Comments